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2009.02.09
[更新/お知らせ]
第3回映画批評家プロジェクト入賞作品発表!


<第3回映画批評家プロジェクト 結果発表>

 第3回映画批評家プロジェクトの受賞作品が決定致しました。
 今回もたくさんの方からの応募をいただき、大変ありがとうございました。皆様からの映画に対する情熱を強く感じました。皆様への感謝の気持ちと共に、このプロジェクトをより意義のあるものにするべく、今後も取り組みを行ってまいります。
 受賞された方はもちろん、惜しくも受賞を逃された方にも、またぜひ次回もチャレンジして頂ければと思います。
 今回は審査の結果、佳作3名を選出いたしました。
 今後の皆様のご活躍を願うと共に、応募して下さいました皆様に心より感謝いたします。
第21回東京国際映画祭事務局
映画批評家プロジェクト一同  
第3回映画批評家プロジェクト概要


<第21回東京国際映画祭 映画批評家プロジェクト総評>

審査委員: 品田雄吉、土屋好生、明智惠子(キネマ旬報編集長)

<審査委員総評>
 映画を、しっかりと見る目を持った批評家を育てるというコンセプトで開始されたこのプロジェクトも今年で3回目を迎えた。
 今回も多数の方からの応募があったが、今後もこのプロジェクトが注目され、多くの人材が育つことを期待している。
 昨年同様、インターネットなどでの発表の場が増えている現在、文章の上手さは目を引くが、突出した作品が無く、レベルは揃っているが同程度の作品が多かったため、今回は優秀賞の選出は見送った。ただ、その中でも映画を見る目を持ち、独自の視点からの批評を展開した3本を佳作として選出した。
 今回選ばれなかった作品の中にも、佳作に値する作品はあったが、批評文として、何が必要か、何が必要でないかという事をもっと自分なりに考えて次回に意欲を燃やして欲しい。


表彰式の模様はコチラから


<第3回映画批評家プロジェクト 結果発表>

佳作:
青木吉幸  Yoshiyuki Aoki   『ブタがいた教室』
柿本直太  Naota Kakimoto   『アンナと過ごした4日間』
古川 徹   Toru Furukawa   『ダルフールのために歌え』
※クリックすると、各受賞作をお読みいただけます。これから作品をご覧になる方は、内容に触れている箇所がありますのでご注意ください。
※受賞者アイウエオ順


◆佳作 
『ブタがいた教室』  青木吉幸

 新任教師の星先生は「1年間育てた後、みんなで食べよう」という前提で、6年2組の生徒と子ブタを飼育する。しかし、Pちゃんと名付けられたブタの世話をする子供たちには次第に愛情が芽生え、食べるか、食べないかでクラスの意見は真っ二つ。タイムリミットは卒業の日。果たして彼らが選択したのはどちらの結論か?
 ショッキングな題材だが、これは18年前に大阪の小学校で実際に行われた実践教育だという。反響を呼んだTVドキュメンタリーとして放映され、本にもなり、今回の劇映画化へと至ったのである。実話の映画化で陥りがちなのは、現実に侵食され、忠実に再現しようとするあまり、本当にあった話が、どこか嘘くさくなってしまうこと。言うまでもなく、映画的なリアルと事実は違う。たとえそれが作り事でも、映画の中の本当らしさを観客が信じられればそれでいいのだ。監督は、役者は、いや、その映画に係わるあらゆるスタッフは、その為に手を尽くす。
 では、この作品はどうか? 現実には2年半の飼育期間を1年間に凝縮し、子供たちとPちゃんのふれあいを春夏秋冬の風景と共に見せており、撮影は美しい。抜けるような青空、夏の夕暮れ、秋の台風、冬の木枯らしといった風景の中、Pちゃんとのサッカーや、花火や、その処遇をめぐってのケンカを描き、子供たちの気持ちが季節とリンクしていくのは、やはり劇映画ならではの描き方だろう。あるいは、Pちゃんと一緒の子供たちを捕らえるカメラが、終始ブタ目線と思えるくらいにローアングルなのも、モノ言わぬPちゃんの存在を常に意識させられる。また、Pちゃんの登場シーンに、元気いっぱいの躍動感ある音楽が付くのもいい。さらには、この映画最大のテーマである、食べるか、食べないか(というより「生かすか、殺すか」というきらいになった節はあるが)をめぐって子供たちがディベートするシーンで、ドキュメンタリー的手法が功を奏しているのも間違いない。子供たちにセリフや結末が白紙の脚本を渡したという監督は、実際に議論を戦わせ、複数台のカメラを用意して、子供たちの活き活きとした生の表情を抜くことに成功しているのだ。
 だが、その一方で大人たちの描き方はどうだろう。担任役の妻夫木聡の自然体な演技はそれなりに好感が持てるが、ファッションショーさながらに衣装が変わるわりに、その暮らしぶりが全く不明なのはどうかと思うし、ブタの飼育に理解を示す校長役の原田美枝子や、逆に批判的な教頭役の大杉漣のいかにも類型的で無難な扱いにも疑問がある。そもそも18年前の近過去でなく、現在の物語として描く努力が薄いのも問題。子供たちがPちゃんを携帯カメラで写すシーンがあるくらいでは、到底足りないだろう。今、劇映画として撮るのなら、そこには18年間の変化を何らかの形で組み入れる努力が必要な筈だ。
 昨今のニュースでも「食」の問題に無関心ではいられない現代だが、その社会を作ってきたのはもちろん子供ではない。大人なのである。この映画の主役がPちゃんと子供であるのは当然だし、子供と大人の両側面を同比重で取り上げるのは無理だと分かってはいるが、即興演出が子供たちを「生かす」一方で、自在に描くことが可能な劇映画として大人たちを描けず「殺す」結果になったのは残念である。



◆佳作 
『アンナと過ごした4日間』  柿本直太

「覗いたものは何か?」

 ニーチェの『善悪の彼岸』には「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。 深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む。」という箴言がある。
 ポーランドの巨匠、イエジー・スコリモフスキ監督の実に17年ぶりの新作は、如何にもきな臭い男が街を歩く描写と、空虚に響く鐘の音で始まる。 街外れの小屋まで斧を運ぶ男、そこにある人間の腕、パトカーのサイレンが鳴り響き、鏡に映る彼の青褪めた表情。 冒頭はヒッチコックに匹敵する上品なサスペンス描写が連続するが、実はそれは監督の愛嬌で、男は自分の仕事をこなしているだけであった(病院から出る廃棄物の処分)。
 男(レオン・オクラサ)がサイレンで青褪めたのには理由がある。 数年前、郊外の納屋で足の爪の赤い女性が強姦される事件があったが、警察は目撃者のレオンを犯人だと決め付け、(吃音症で)気の弱い彼はそれを否定できなかった為、冤罪でしばらく服役させられていた。 また、彼は家の向かいに位置する病院の女子寮、特にアンナの部屋を常習的に覗いており(ストーキングもしている)、近々そこへ侵入する計画も建てている。 過去の逮捕のトラウマや不法侵入の企てが、彼を警察に対して異常に神経質にさせているのである。
 献身的に世話をしてきた病気の祖母が亡くなると、レオンは吹っ切れたようにアンナの部屋へ侵入を試みる。 睡眠薬等で下準備した甲斐あって進入は成功するのだが、彼の良心と小心が、寸前のところで眠るアンナに触れるのを制止した。 侵入は4日間に及ぶにもかかわらず、解れたボタンを繕ったり、掃除をしたり、マニキュアを塗ってやったり、指輪を置いて来たりと、レオンは決して彼女に手を出さない。 偏執的にアンナを覗いていたのは性交渉が目的ではなかったのだろうか。
 彼が最初に「覗いた」のは、実はアンナの部屋ではない。 彼の人生初の「覗き」は例の強姦の現場であり、言い換えれば人間の欲望、ニーチェの言を借りると「深淵」である。 数年前、レオンは農場でレイプの現場を覗き、激しい欲望の具現を覗き込んだ。 しかし同時に欲望の根幹、つまりある種の「深淵」もまた彼を覗き込んだのである。 そして定石通り、欲望の「怪物」と対峙した彼は自らも欲望の「怪物」に変化していった。 端的に言うならば、レイプというものに直面することで、彼も誰かをレイプしてみたくなったのである。 被害者の女性と重なるよう彼がアンナの足に赤いマニキュアを塗ったのは、先の事件と無意識に同調させようとした為だ(ここまで来ると、例の事件の被害者が実はアンナ本人であったことは容易に想像がつくだろう)。
 だが、レオンは「怪物」にはならなかった(冷静に自己を見つめ直す鍵として鏡が度々登場する)。 歪んではいたものの、アンナへの愛が彼を踏み止まらせた。 監督は「作品中に人間の暗い面と明るい面が表現されている」と語るが、後者は、アンナを愛するが故に、最後まで彼女に手を出さなかったことに集約されている。 また部屋への不法侵入により法廷へ召喚された際、レオンはアンナの前で、彼女を愛していること、自分が潔白であったことを真摯に訴えることができ、彼の人間としての成長も読み取ることができる。
 しかし、愛だけで全てが上手く収まるわけではない。 ピーピング・トムに代表されるように何かを「覗いた者」は何らかの罰を受けなければならず(目を潰されるのが基本)、この作品でもそれは同様で、終幕においてレオンは二度とアンナを覗けなくなってしまう。 確かにレオンが深淵からこちら側に戻ったのは喜劇的だが、やはりこの物語は悲劇と評する他ないだろう。 (彼が愛した)アンナは“向こう側”に居るのだから。



◆佳作 
『ダルフールのために歌え』  古川 徹

 実直なタイトルが示す通り、明確な社会的メッセージが込められた作品である。しかし、そのメッセージは決して直球ではない。ダルフール紛争の惨状を描くことで関心を高めるという常套手段ではなく、ダルフールを一切描かずに、他国の痛みはおろか、目の前の他人の痛みにすら無関心な都市生活者たちの、空虚な日常の断片を切り取り、コラージュすることで、いつしかスクリーンと客席の垣根を取り払い、観る者にヒューマニズムを啓蒙する。ヨハン・クレイマー監督は、そんな大胆な試みを仕掛ける。
 ダルフール救済コンサートに沸くバルセロナ。しかしながら人々の関心の対象は救済ではなく、豪華アーティストのパフォーマンスであり、それがもたらす利益である。ひったくりによって旅行者から奪われたチケットは、転売に次ぐ転売で値が跳ね上がり、そればかりかチケットの偽造によって荒稼ぎを企む輩まで現れる。善意によるコンサートには悪意が寄生している。
 街の雑踏を慌しく交差する人々は、わずかに触れ合いながらも心までは交わることなく、自らの利益のみを追い続ける。その世知辛い姿には心寒くなる。しかもスクリーンは自分を映す鏡のようで居心地が悪い。カメラは、興味本位で盗み見するかのような無責任な視線で、不自然なアングルから都市生活者たちを捉える。落ち着きのない小刻みなカット割りと、息がつまる程のクローズショットは、彼らの慌しい生活のリズムとプレッシャーに符合し、モノクロームのザラついた画は、心の乾きを映し出す。目まぐるしく被写体が替わり、痛みや幸福感を共有することなど許されず、コミュニケーションの欠如に不安が募る。どこか突き放したような歪(いびつ)な構図は人物像を一層歪め、観客にストレスを強いる。映画を観ることは、スクリーンを隔てて登場人物との擬似的、刹那的な関係を築く行為でもあるが、余りに希薄な人間関係に不安にかられ、雑踏に埋もれるような孤独に苛まれる。
 しかし、クレイマー監督はラストに救済を用意する。中年のタクシードライバーが登場すると、次第にカメラは被写体と真摯に対峙し、的確な構図で彼を捉え、受け入れようとする。やがて彼の心ある言動により安堵感が生まれる。そして、冒頭でひったくりに遭った女性をタクシーに乗せることで、点在していたエピソードのモザイクが輪を形成する。フリーハンドで描いたような歪な輪ではあるが、一筋の光りが灯り、無機質な映像がにわかに体温を帯びる。被害者の女性は、チケットと引き換えにもっと大きなものを得たに違いない。それこそが本当の救済につながることを願いたい。彼女を祝福するかのように包み込む気高い歌声が至福の時を提供する。


 出演者の輪の中に"YOU"(観客)を配置するエンド・クレジットは、いささか過剰な表現にも思えたが、登場人物たちがリレーのようにつなぎ、ささやかな希望が込められたバトンを、一人でも多くの観客がしっかり受け止めることを促す、作り手の善意は信じたい。
 惜しむらくは、全編を通して画面構成がやや単調なため、空間的な広がりが乏しく、バルセロナを舞台に選んだ意味が希薄な感がある。しかし裏を返せば、それによって作品に込められたメッセージが、世界中の都市に通じる普遍性を帯びているのも事実である。いずれにしても、既製の文法にとらわれない自由奔放な筆致が感性を刺激する、イマジネーション豊かな作品である。




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